まいど、おおきに Bom dia!
先日、移民110周年特集のテレビ取材が学校にやってきて、日本語授業の本読み練習しているところを撮影され、ブラジルでのTVデビューを飾った人。
ハマヤネン(@HamayaneN_01)です。
現在、青年海外協力隊(日系社会青年ボランティア)としてブラジルで活動しています。
恥ずかしながら、青年海外協力隊に応募する時にはブラジルにこんなにもたくさんの日本の文化や日本にルーツを持つ人がいるなんてことを全く知りませんでした。
現在、自分が活動している学校に通うこどもたちも9割が日系人の子ども達です。
(日系人:おじいちゃんやおばあちゃんが日本人で昔出稼ぎとしてブラジルにやってきた人の子孫)
友だちに子ども達との写真を送ると
とよく言われます。
ブラジルに来る前に受けた研修の中でブラジルの歴史と合わせて、どういう経緯でたくさんの日本人が海を渡りブラジルにやってきたのかということを初めて学びました。
なので、日系社会の最低限の知識は身につけてブラジルへはやってきました。
今回、ブラジルの日系社会の歴史について書きたいと思ったのはこのような経緯からです。
バレー仲間と練習ごに食事をしていたとき!
自分よりも日本文化について沢山知っている人もいるから少し恥ずかしいかな。
どこでも習ったことも聞いたこともなかったから!俺たちは研修中に勉強したから知ってたけど
という会話から、
ブラジルに日系社会があることを日本にいる人たちに伝えたい。
と思いまして、
少しですが日系社会の始まりについて今回は書きます。

写真:神戸港移民船乗船記念碑
(強い意志を感じる表情の親子が海に向かって歩き出す像です。)
今回はブラジル日本人移民について何も知らない友達との会話をもとに書いて見ました。意外と読みにくいかも???kkk(ブラジル版”笑”)
まずは日本人が移民としてブラジルにきたのはいつなん?
それから、どれくらいの人がきたん?
1906年6月18日やで。
この日をブラジルでは「日本人移民の日」、日本では「海外移住の日」としているで。
初めて移民を乗せてブラジルに向かった移民船の名前は「笠戸丸」というんやで。

1906年4月28日夕暮れ時に神戸港を出発して5月9日にシンガポール、6月3日にケープタウンを経由し6月19日朝にブラジルのサントスという町に到着したんやで。
地図もあるよ!ほいさ!
ちなみに、移民船「笠戸丸」でサントス港に入港した日本人の数は781人。


現在、ブラジルは世界最大の日系人居住地やねん。
1908年以降の約110年間で13万人の日本人が移住し、現在は約160万人(ブラジルの総人口の約0.8%)の日系人がブラジルに住んでいると言われているで。
簡単にまとめると下記のようになるで!
詳しいことは下にかきマッス!
① アメリカ合衆国大統領リーンカーン氏が「奴隷解放宣言」を発布し、その影響を受けブラジルは労働力不足!
② 日本は日露戦争に勝ったけれど賠償金がもらえず、経済が困窮→仕事がない人が増加!
③ 今まで日本人を受け入れていたアメリカで日本人移民への人種差別が激化→アメリカへの出稼ぎ窓口の縮小!
以上のことから日本とブラジルの利害が一致したため日本人はブラジルへ出稼ぎに行くことへなりました。!
詳しく話すと【長いので興味のない人はスルー!】
ブラジルが労働不足になることに!【アメリカ南北戦争について】

ここからは私が!
なぜ、日本人がブラジルへ?
ことのはじまりはアメリカ国内でおこった南北戦争!
この戦争は1861年4月に起こったんです。
黒人奴隷を解放した方が利益を生むことができる北部と黒人奴隷を解放させると利益が逃げて行くので、解放させたくない南部が対立して起こった戦争なんです。
北部はイギリスとの戦争の結果、イギリスからの工業製品輸入がストップしたこともあり、自国で工業製品を造らざるをえなくなったため、急速に工業が発展していました。
工業では、景気の良いときは人手をより多く必要としますが、暇な時は出来ることなら労働者を解雇しなければやっていけないのです。
南北戦争前の北部は、急速に工業を発展させていたため、新たな労働力を必要としていた反面、もし不景気の場合を考えると、いつでも労働者の首を切れる状態にしておきたかったのです。
大量の奴隷を雇うと衣食住を養わければいけないので膨大な賃金がかかりますからね!。
綿花市場は、イギリスが産業革命で繊維産業を大きく成長させていたので、綿花を作れば作るほど飛ぶように売れていたわけです。
つまり奴隷を解放することになると、綿花を作る量が少なくなる。綿花ができないと利益が生まれない!つまり産業の基盤が揺らぐこととなるわけです。
結果的に1865年北部が勝利し終わります。
その影響はブラジルにもやってきます。

仕事はあるのに労働力不足状態になりました。
スルー
日本人移民最大の受け入れ国→アメリカの異変!

そのため、日本政府はアメリカへの日本人移民の窓口を縮小しました。
一方その頃日本では日露戦争で勝利したもののロシアと結んだ条約では賠償金を得ることができませんでした。
日本経済はどん底に!
追い打ちをかけるように、アメリカ政府が日本人移民の窓口をさらに縮小→のちに禁止。
このまずい状態をなんとかするために日本政府は新しい受け入れ先を探していました!
そんなところに「ブラジルは労働力を欲しいているらしいぞ!」という朗報が!
日本・ブラジル双方の需要と供給が一致したので、ブラジルへの移民が1908年開始されることになりました。
[chat face=”p548.png” name=”トモダチA” align=”left” border=”red” bg=”red” style=””]なるほど!そうやったんか![/chat]
日本人移民を待ち受けていた過酷な待遇!

移住する人たいはもちろん日本に帰れると思ってやってきていましたよ!
なぜなら
移民希望者を募集する会社が、ブラジルでの高待遇や高賃金を受けられるで!と宣伝していたので!
ブラジルとしては奴隷解放令に伴う労働力不足を補うことを目的としていたので、法律上の地位こそ自由市民でしたが、扱いは奴隷同等の扱いでコーヒー農園の手伝いをさせられていました。
実際に居住環境は悪く労働は過酷で、賃金の悪さなどの待遇が悪かったので、帰国するための貯金どころではなく生活する他目に必要なものを買うなどすると、借金が増えるばかりでした。
希望を持ってブラジルやってきたのに、現実がこれって!
大変な苦労をしたんやな!
ということで、今回は日本人がブラジルにくることになった経緯について簡単にまとめて見ました。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
チャオチャオ( ・∇・)!